明治大正期の八郎潟開発計画

こんにちは。さきいかです????

博物館に心地よい風が吹きぬける今日この頃・・・
みなさんいかがお過ごしでしょうか☺

以前、八郎潟西岸部の開発をした渡部斧松さんを紹介しました。
この方↓
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八郎潟の湖底土は周辺からの土砂が堆積したもので、分解しやすい有機物を含んだ肥えた土壌で、地形は西洋皿状と浅い湖のため、斧松さんだけでなく昔から八郎潟周辺の人々は開拓したいと夢を描いていました。
しかし、斧松さんの開発はあったものの明治までは地先を延長していく開田という地道なものでした(;´Д`)

明治に入ると、八郎潟開発に向けて具体的な計画を立てた人がいます。
その方がこちら↓
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めっちゃUP(゜Д゜)
島 義勇(しま よしたけ)さん。
この方は秋田県知事第1号であります。(当時は権令:ごんれい、後の官選知事にあたる)
権令として着任後すぐ、明治5年4月に八郎潟開発計画を発表。
時の太政官、大久保利通に八郎潟開発についての書面を提出しました。
その書面の内容というのが
・八郎潟掘削費 15万円
・小蒸気船2隻代 8千円
・外人技術者雇用費 2千円  計16万円
を融資してほしい。そうすれば、数千町歩の水田ができ数年のうちに米の増産が可能である。
というもの。
当時のお金の価値で言うとすごい額でしょうね~(゜Д゜)

あまりにも意表を突いたため聞き入れられず、その後、島さんは免官されました。
権令となってからわずか5ヶ月の出来事でした・・・(´・ω・`)
しかし、八郎潟の全面開発に着目した点や、外国人技術者の雇用を考えたことなど先見の明がありますよね!
ちなみに、島さんは札幌市の建設に着手した方で「北海道開拓の父」ともよばれているそうです。

そしてもう1人。
小玉 友吉(こだま ともきち)さん。
飯田川飯塚の小玉さんといえばピン(゜∀゜)!とくる方もいるかと思います。
そう!
小玉醸造さんの社長さんだった方です!(友吉さんのときは小玉合名会社という社名)
小玉さんは八郎潟利用開発の必要性を訴え、自身も八郎潟東岸を10年かけ約70ha干拓。
干拓実践者でも干拓支持者でもあった小玉さん。
熱い想いが伝わってきますね!

多くの人が開発したいと思った八郎潟。今その場所にいるってふしぎだな~p(´⌒`q

今回は文章多めな内容になってしまった・・・
最後まで読んでいただきありがとうございました☺

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