• 名称 八郎潟干拓碑
    一言説明 大潟村発祥の地
    キーワード 歴史発見防災
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    保全法令等

    干拓前の八郎潟は、日本で2番目に広い湖でしたが、最も深いところでも4.7m程度であり、湖底はほぼ平らでお皿のような形をしていました。八郎潟干拓工事により大潟村を取り囲む51.5kmの堤防が作られました。昭和38(1963)年11月に排水機場が動き始めると、干拓地内の水位は徐々に低下し、翌年9月には比較的水深が浅い八郎潟西部を中心に、約60km2(6,000ha)の湖底が姿を現しました。この面積は中央干拓地のおよそ35%に過ぎませんでしたが、水量としてはすでに約90%が排水されていました。
    昭和39(1964)9月15日、中央干拓地がはじめて一般に公開され、ここで多くの関係者の出席のもと、干陸式が行われました。そして昭和44(1969)年、八郎潟を模した台座の上に、世紀の大事業を刻した「八郎潟干拓碑」が建立されました。

  • 名称 大潟神社
    一言説明 大潟村民の心のよりどころ
    キーワード 歴史文化伝説
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    保全法令等

    昭和39(1964)年10月1日に大潟村が発足すると、入植とともに役場や小学校、住宅、商店街などの生活環境が整備されていきました。やがて、住民の連帯の精神的象徴として、神社の建立を多くの人が望むようになりました。折しも伊勢神宮では、昭和48(1973)年、第60回の式年遷宮が行われました。多くの関係者のご理解とご協力により、翌年伊勢神宮の瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)1棟の古材をまるごと譲り受けることができました。これを用いて昭和53(1978)年、大潟神社が建立されたのです。
    大潟神社には、皇室の祖先神で太陽の神である天照大神、豊穣の神である豊受大神、八郎潟を創造した八郎太郎大神の三神が合祀されています。大潟神社の例大祭(村祭り)は毎年9月10日に行われ、村内をお神輿が行進するほか、奉納相撲も行われます。

  • 名称 旧八郎潟入植指導訓練所
    一言説明 入植者は1年間ここで訓練を行いました
    キーワード 歴史発見探求
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    保全法令等

    八郎潟中央干拓地の建設の目的は「ほかの地域の模範になるような新農村を建設する」ことでした。そのため国は、八郎潟中央干拓地に入植し、営農を行う人たちを昭和41(1966)年から昭和49(1974)年までの間に5回募集し、試験選抜を実施しました。こうして、後に秋田県による入植も含め、合計589人とその家族が大潟村に入植したのです。合格者に対しては、共同生活による1年間の訓練(5次入植者)は7ヶ月間が義務づけられていました。訓練を行った場所が八郎潟入植指導訓練所です。本館や宿舎棟、整備工場などが設けられていました。現在は2棟が残るのみです。

  • 名称 南の池公園
    一言説明 入植記念碑が輝く
    キーワード 歴史自然綺麗
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    南の池公園は、八郎潟干拓工事の完工を記念し、昭和51(1976)年に整備されました。春にはソメイヨシノとツツジ、夏にはハスの花がたいへん美しく咲きます。公園内には、干拓記念碑、八郎潟干拓工事に活躍した浚渫船「呑龍」のカッター、大潟村の入植者全員の名前が刻まれた入植祈念碑、八郎潟をこよなく愛した歌人石田玲水の歌「水底の藻草も蒼く揺れやまず八郎潟に春来むとして」の石碑など、多くのモニュメントがあります。八郎潟干拓工事や入植に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

  • 名称 大潟富士
    一言説明 山頂と足もとに注目
    キーワード 歴史綺麗発見
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    大潟富士は日本一低い山で、平成7(1995)年6月3日の「測量の日」に完成した築山です。ふもとから山頂までの高さが3.776m、ちょうど富士山の1/1000の高さです。また、山頂の標高は海抜0mで、隣接する八郎潟干拓記念水位塔と等しく、かつての八郎潟の湖面を表しています。
    大潟村は、湖であった八郎潟を干拓した湖底に誕生しました。そのため堤防以外の土地が海抜よりも低くなっています。大潟富士の山頂からは、干拓地の広大な風景が楽しめるとともに、かつての八郎潟の深さを実感できます。
    なお、八郎潟干拓記念水位塔の手前には三角点があり、その標高は-3.8mです。

  • 名称 八郎潟河川公園
    一言説明 日本海中部地震の記憶
    キーワード 防災発見歴史
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    昭和58(1983)年5月26日正午頃、秋田沖を震源とするマグニチュード7.7の日本海中部地震が発生しました。村の生命線である堤防をはじめ、干拓地の維持管理施設や農業施設が被災し、被害総額が90億円を超える大惨事となりました。
    特に堤防は、堤防を構成する盛り土の砂層が液状化を起こし沈下してしまいました。復旧工事は堤防を原型に復旧するのではなく、湖と堤防の間に鋼板を打ち込むとともに、堤防のかさ上げと拡幅が行われました。工事費用は327億円7,000万円に達しました。
    昭和60(1985)年に復旧工事は完了しました。ここに八郎潟河川公園が整備され、竣工式が行われました。再び災害が起こらないよう祈願するとともに、ここに完工記念碑が建立されました。

  • 名称 八郎潟干拓堤防最終締切地点
    一言説明 堤防が閉じられた最終締切地点
    キーワード 歴史発見探求
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    八郎潟を干拓し誕生した大潟村は、1周約51.5kmの堤防に囲まれています。堤防は大潟村の生命線であり、昭和33(1958)年から6年にわたり工事が行われました。堤防の最終締切地点は、南部排水機場より約1.4km東にあり、堤防に標柱が立っています。正面堤防の最終締切は昭和38(1963)年10月12日、1ヶ月後の11月12日から堤防内の排水が開始されました。